山根さま

コメント・メール(22)です。
 山根治さま
 貴公開メール(27)には、「前代未聞の猿芝居」の引用があり、、そこでその記事を読んだら、記事の側面に「アーカイブ」があったので、それを全部目を通して見ました。すると、「中江茂樹氏からのダイイング・メッセージ15」が出現し、そこに「見えて来た裏の構図(6)」に行きつきました。
 山根治ブログの特徴は、素晴らしい情報の宝庫だのに、索引の出来が悪いせいで、過去の記事を探し難くて、ラビリンスに入った印象が強く、奥の院にたどり着くまでの迷路が、錯雑して惜しい限りです。それは日本の図書館や、大学図書館でも同じことで、プロの司書の訓練が劣り、学問の場の大学でさえ、使う人の立場になっておらず、図書館が本の倉庫に過ぎません。
 私はジャパノロジストについて、彼らの実力を知るには、書庫の蔵書の質を調査し、問題意識を探るのが最良と考え、十年以上を費やして、米国の大学の書庫巡りをしました。そして、日本学の講座を持っている、米国の20校以上の大学を訪れ、それで得た評価をベースに、日本学者と議論をしたが、それで相手の真贋を判断し、その一端は『アスペ」の三畸人交遊録』や、他の拙著に書いてあります。
 また、私はペパーダイン大学で、総長顧問をした時に、世界の百校余りを訪問し、総長や学長を相手にして、人材育成問題を論じたが、責任者の人格が決め手で、通俗的な有名校は無意味と知りました。だから、小泉や安倍を始め、菅や岸田などを首相にした、日本はとても一流国でなく、三流国だ判断することに、私は強い自信を持っており、それが私の評価力の基準です。
 それで得た私の結論は、大学は建物に過ぎず、そこにいる学者の実力と、大学図書館の蔵書の質が、学部の格を決定づけており、大衆には一流大学とか、二流大学の呼称はあっても、一般化は無意味なのです。どの大学のどの学部は、ある時期は誰が教授だったから、横綱格だと形容できても、それは大学全体を示さず、優れた人が上に立って、適材適所が実現した時に、初めて一流と呼べるのです。
 だから、私の人生の遍歴は、有名と言う虚名ではなく、一流の人材を訪ね歩き、その薫陶を仰いだのだし、市場に群がる大衆は、相手にしないで来たし、賎民資本主義に反抗してきた。そして、著書も未来の読者に向け、メッセージを送ったから、大衆相手の日本では、黙殺されて書評もなく、活字にする出版社も不在で、電子版で記録を残したのです。
 大兄の「見えて来た裏の構図(6)」には、「大学の横綱格は東京大学、大関格は慶応大学と早稲田大学。東京大学は、政・官・財にわたるオ-ルラウンド・トリッキ-・プレイヤ-、いわば「日本一の大親分」、慶応大学は、財のトリッキ-・プレイヤ-、いわば「こそ泥の類(たぐい)」、早稲田大学は、政のトリッキ-・プレイヤ-、いわば「寝わざ師」。・・・」とある。だが、後半部その通りだろうが、横綱や大関の格付けが、大いなる疑問だと思うのは、学問的な評価ではなくて、権勢欲の分布図だからでしょう。
 私は小室直樹との共著に、『脱ニッポン型思考のすすめ』があり、この対談相手は京大で数学を学び、経済学者になるために、阪大の大学院に行き、そこで経済学を専攻しています。その辺の事情について、『「アスペ」の三畸人交遊録』に、次のような記述をしており、真に学問をする場に関し、世界に通用する発言を行い、日本の常識に反逆しています。
 「・・・1950年代の経済学は、マルクス学派が卓越し、1960年代になると共に、近代経済学を謳うケインズが、一般理論で脚光を浴び、急速度に追い上げていた。旧帝大系はマルクス派で、旧高商系が近経を好み、商業都市の伝統から、阪大と大阪市大は近経という、不思議な現象があって、阪大の経済学部が輝き、それに小室直樹は影響された。
 その頃の京大の経済学部は、マルクス経済学の全盛期で、高田保馬の高弟の青山秀一や、鎌倉昇が頑張っており、近代経済学では阪大が、高田教授の存在で日本一だった。また、東大の経済学部はお粗末で、文一の優秀な学生は法学部を選び、東京では一橋や慶應義塾に、優秀な教授がいたから、気の利いた学生はそれを知っており、経済学では西高東低だった。
 日本のマーシャルと呼ばれて、『勢力論』(有斐閣)を書いた高田保馬教授は、日本人嫌いのケインズが、尊敬した唯一の経済学者で、高田が京大から阪大に移ったから、弟子たちもそれに従った。阪大に移った高田保馬教授は、ワルラス理論で近経を開始し、高田に従った若手の弟子には、森嶋通夫、市村真一、畑中道雄、安井琢磨がいて、阪大の近経の黄金時代を築いた。
 小室直樹の話では、京大の数学科の学生時代に、ヒックスの『価格と資本』(岩波文庫)を読んで感動し、数学から経済学に転じたが、その翻訳本の序文を書いたのが、市村真一教授だった。また、市村教授が阪大にいたから、大学院は大阪大学に決め、指導教授にも選んだし、厳しく鍛えられたそうで、小室流の偏屈さは市村仕込みである。
 この話には裏の話があって、市村真一が三回生の頃に書いた論文が、LSE(London School of Economics)のヒックスに認められ、彼の本の一章に「市村理論」として載り、二五歳の彼は有名になった。その後に取材したら、市村は神童だが天才ではなく、それ以降は鳴かず飛ばずで、晩年右翼の論客になった点では、西尾幹二と似た人生で、専門で息切れし反動化した。
 LSEの森嶋通夫教授の話だと、小室はフルブライト奨学金を得て、日本を見限って渡米したが、先ずミシガン大学で、計量経済学を習得し、経済学の本質を徹底理解した。米国は黄金の60年代で、ケインズ学派の理論が、この世の春を極めていたから、乗数理論を使いこなす、サミュエルソンに師事し、小室はMITで経済学を仕上げた。・・・」
 私の留学時代の級友の夫人は、パリの高等商業の卒業生で、そこは大学でなくポリテクニックに属し、アントワープの高等商業が、建学の手本になっており、実学の商業学は港町に発達した。だから。明治政府が作った高専は、神戸や横浜に位置したし、一ツ橋の前身の東京高専は、パリの高等商業を手本に、渋沢栄一が創立の努力をしたのです。
 だから、官僚養成機関の東大は、法学部に行くのが本筋で、大学で商業を学ぶよりも、大阪の道修町で丁稚になり、商売を学ぶのが正道とされ、東大で経済学を学ぶ学生など、邪道扱いをされていた。私が高校生だった頃は、早稲田の商学部は無試験で、誰でも行けた大穴だったし、それで行った連中が、雄弁会に入って政治家になり、経済学を学ぶ学生は、理財科の伝統を持つ慶應か、一ツ橋を選んだものでした。
 ラテン語ができなければ、ゼミに入れない上原専録や、有名でなくても実力を評価された、教授が一ツ橋にはいたが、東大の経済は三流で,法科に行けない者の吹き溜まりだった。一ツ橋でも社会学部は、慎太郎のような太陽族を生み、恥晒しをして情けないが、竹中平蔵が一ツ橋を受けたのは、東大の入試が中止になり、法学部に行けなかったせいだろう。
 日本の大学の入試は、記憶力を試す暗記本意で、偏差値と言う虚妄に従い、独創性や判断力は評価せず、ディジタル人間を選ぶから、点取り虫や東大話法のお花畑だ。だから、政界は世襲代議士だし、官界の幹部役人は東大法科卒で、六法全書を丸暗記した連中が、三百代言を並べ立て、出世街道を目指すから、日本は国力を衰退させており、後進国に転落中なんです。