コメント・メール(70)です。

 山根治さま

 大兄の公開メール  (92)は自民党王国島根県が、如何に政治を私物化し親分子分という門閥・派閥で構成されており、首相を含めた自民党議員の背後に、隠れた支配者がいたかを証明しています。首相だった竹下を操っていたのは秘書役だった青木幹雄で、竹下や青木のご主人が県知事の田部長右衛門だったことは、私の母親が島根県浜田出身だから、浜田に疎開して幼稚園や国民学校に入った私も、祖母からさんざん聞かされています。
 
 この祖母は津和野の近在の柿の木村出身で、津和野藩の馬回りの吉田家に嫁ぎ、私の祖父の吉田謙助の後妻になったが、浜田女学校の第一期生で、卒業後は台湾で女性記者をやり、帰国して結婚後は浜田に住み、印刷所を経営した戦争婆さんでした。祖父の謙助は森林太郎と藩校の養老館に行ったが、廃藩置県と廃刀令で挫折して、屋敷を輪転機と交換し島根二中があった浜田に引っ越し、妻に印刷屋を経営を任せて津和野の若者を下宿させ、浜田中学に通わせ面倒を見たが、一生を鶯を取って暮らした男でした。

 浜田は陸軍の軍都として、広島第五師団21連隊があり、国民学校の教科書で習った「シンデモ、ラッパヲクチカラ、ハナシマセンデシタ」と言う、日清戦争の木口小平が属す連隊がありました。祖母は幼稚園児だった私に、この話を暗唱させた戦争婆さんで、私に軍隊アレルギーを植え付けたが、山口や島根は半島系が多く、非常に好戦意識が強いから、東京生まれの私には異境でした。

 軍国婆さんの祖母のタケは、息子を二人戦死させており、日本遺族会の浜田支部では、可なりの活動家だったらしく、上京する度に靖国神社に行き、遺族会長で大臣だった大達茂雄に会っていたが、中学生の私が一緒でした。大達は浜田出身の内務官僚で、満州で官僚としては岸信介の先輩だが、戦争でシンガポールを占領した時は、昭南市長をやってから、東京都の長官や内務大臣をやった、浜田出身の辣腕政治家でした。
 
 こんな軍国婆さんのお蔭で、政治家と結ぶ女の威力が凄まじく、政治を狂わせることを目撃して、晋三が安倍洋子の影響を受け、小心者が暴君として空威張りするプロセスが、良く理解できたのでした。だから、島根県政のドンの妻の田部陽子が、番頭の青木幹雄を操ることで、妻を父親に強姦され自殺劇を生み、精神的に傷ついた竹下登首相を背後から操り、国政を弄んだ出雲流の国盗り劇が明白です。これが島根の「狐持ち」の正体です。
 
 私の親父は商売人で神田で医療器の卸商を営み、母親の出身地の島根の青年を雇い、商品の荷造りの小僧として働き、荷造りや運転手をやってから、何十人も島根県人が上京体験をしていました。数年ほど東京で生活して故郷に戻って行くが、中には益田の市会議員になったり、あるいは島根県会議員になって、そのほとんどが竹下派だったから、私は政治の後進性に呆れたものでした。

 墓参りで島根に行った時に、昔は小僧だった中年男が、故郷では政治家になり、宴会疲れと酒焼け顔をして、海外視察した話を聞かされ、多くが糖尿病に悩んでおり、これが日本の実情かと嘆息したものです。男は地方で出世して名士の仲間になっても、自分で考える頭脳はなく疲れ果てて生きた骸だったが、夫人は皆が元気溌剌であり、これが政界のカカア天下の正体かと、納得したが侘しさ一杯の光景でした。

 安倍洋子や田部陽子が政治家の夫の背後に控え、マザコンの息子を操った話は世の中に五万と存在しており、則天武后やネロの母親のアグリッピナを始め、その数は数え切れないほどです。米国の日本専門家(Japanologist)の場合、成功者の夫人の多くが日本女性であり、それが政治に関係すると碌な結果を生まないことは、『日本沈没と日本崩壊』に次のように書いておきました。
  
 「・・・当時の米国の学生は一流はヨーロッパに行き、アジアに関心を持ち、留学する気になる者が変わり種扱いの時代で、日本は未だ辺境であり、冒険家の訪問先に属していた。だから、指導教授モーレイの下で、野外調査で訪日して、中曽根から紹介され、大分の佐藤文生議員の選挙活動に張り付き、観察記録をまとめただけで、カーチスは学位を得ている。
    親分だったパッシンは、『代議士の誕生』と題した、カーチスの博士論文に、『あれは学問ではなく、土人部落の探訪記だ』と言ったが、それがJapanology(日本学)として通用していた。

 パッシンはスパイ要員として陸軍で語学を仕込まれ、戦後はGHQで働き日本文化の理解者になり、文学や語学の才能を生かし戦後の日米交流に貢献したが、ライシャワーの仲間でもある。パッシンは『古事記』や『源氏物語』を読み、TBSの初代編集長としてブリタニカ百科事典の日本語版を出版し、気を吐いた逸材だったが、話をカーチスの件に続けます。

 「若い頃のカーチスはパッシンの腰巾着で、親分が鎌倉に行くと一緒について行った結果が、親分の折衝相手(深井武夫)を知りその娘を妻にしたが、津田塾卒のミドリさんは彼より遥かに優秀だった。日本学者の多くは日本女性を妻に持つが、ほぼ例外なく妻の方が良くできており、そのお陰で出世した例が軒並みで、彼は妻の貢献でコロンビア大教授になれた。・・・カーチスの同級生でコロンビア大で学び、ハーバード大の政治学部で教授だった、マイク・ブレーカーとは親しかったから、『理は利よりも強し』に対談が収録してある。カーチスの弱みをマイクから聞いていた私は、フィクサー役を演じ日本を食い物にした彼に、調子に乗るなとマイクを通じて言わせ、釘をさしたこともある。

 菅直人が首相だった時に、夫人同伴で訪米したが、菅信子は津田女子大の英文科卒で、ミドリ・カーチスと同窓だから、親友に会いにNYを訪れ、その時に菅首相はカーチスに取り込まれた。そして、CIAの軍門に下った菅は、右転回し増税路線を打ち出し、国民を裏切って下野した上に、前原や野田に党首を手渡して、民主党政権を自滅させた責任者です。

 「将を討つには馬を撃て」と言うが、首相や大統領の背後にいる夫人や母親を攻略すれば、敵国を仕留める秘策だとは、歴史の教訓が教える通りで、その手口は情報機関なら熟知しています。また、首相だった小泉純一郎は、姉の小泉信子に指図され、姉が妻代わりだったことは、『小泉純一郎と日本の病理』に書いたが、小泉家は代議士が稼業だから、姉が弟を操縦したのです。

 だから、次男の進次郎に稼業を継がせ、代議士にする目的に合わせ、マイケル・グリーンの手引きにより、カーチスに頼み込んで、次男はコロンビア大に入ったが、条件付き合格で英語学校で一年の特訓でした。笹川良一のポチだった、佐藤誠三郎の弟子のグリーンは、小泉進次郎を「大名の人質」と呼び、将来の首相候補として、呂不韋の「奇貨居くべし」に習い、日本支配への布石にしました。

 だから、一年半後に修士号を貰い、次はグリーンが日本部長である、ジャパン・ハンドの巣窟のCSISに移り、イエズス会のジョージタウン大に米国探題として作られた、CSISで仕込まれ帰国しました。CSISはナチス思想を導いた、カールホッファー教授による、ドイツ地政学の普及のために、ワシントンに作られたシンクタンクで、その思想と内容については、『ゾンビ政治の解体新書』や『ゾンビ政体・大炎上』に詳述しました。