コメント・メール(10)です。

 山根治さま

貴公開メール(14)の最後において、相沢英之の名前が登場したので、それについて論じるためには、私と山陰地方との結びつきについて、説明する必要がありそうです。実は私の母方の出自が、石見の津和野の出身であり、津和野、浜田、松江という町における、私の幼年期の体験について、説明する必要があるので、そこから始めることにします。

私の母の本貫は島根県の津和野で、津和野藩では馬回りで、若き日の西周が下宿して藩校に通い、祖父は森金之助を苛めたり、一緒に養老館に通ったようです。この件については『賢く生きる』に収録した、西原克己博士と試みた、「”明治の大文豪”森鴎外の隠された真実」や『賢者のネジ』に収録した、伝記作家の小島直記との対談、『近代日本の基盤としての【フルベッキさん脈】』に、エピソードが書いてあります。

その中から引用すると、「・・・実は私の母方の祖父は養老館という津和野藩の藩校で、森林太郎と同じ時期に学んだらしく、亡くなった母や祖母から、幼い頃にそんな話を聞いています。職務は津和野藩の馬廻りだったと言いますが、森林太郎だけでなく、西周とも関係があったらしく、【西先生の机】と呼ばれた書見台が残っていたので、母が亡くなった時に、津和野の郷土館に寄贈しました。…その机の裏面には、丸文字が墨で書いてあった。【読書百遍而義自見】(読書百遍にして、義自ずから見わる)という漢文で、郷土館の学芸員が西周の筆跡だと鑑定してくれました。」

だが、明治末の時期には、津和野に中学がないから、屋敷を活版機と交換して、子供の教育に浜田に出て、出雲大社の浜田支社の隣で、印刷屋を営んでいました。松江が島根県の一中で、浜田には二中があり、戦争で浜田に疎開した私は、幼稚園と松原国民学校に行き、浜田で数年過ごしたから、幼馴染もたくさんいました。

また、母の妹はお寺に片づき、松江の学校の先生をやり、旦那の坊さんは旧制松江中学で、竹下登の一年後輩だったし、親戚には教育委員長がいて、墓を松江に移した関係もあり、松江は熟知しています。だから、竹下登の出自についての謎は、彼が首相になる前から知っており、島根県の秘密に興味を持ち、柿下人麻呂の頃から幕末に至るまで、人並み以上の関心を払いました。

西周や森鴎外の人生が、私の母の家と関係し、結び付いていたと知り、歴史に強い興味を抱いたので、中学生の私は二人の著作に、熱中して読み漁ったものです。そして、二人が上京した旅路が、津和野から三田尻に出て、そこから海路で難波に行き、船旅や東海道をたどり,江戸や東京に出たと学び、、幕末史をマスターしたのです。

幕末後に石見の県令から、初代島根県令になった佐藤信寛が,佐藤甚兵衛の系列に属し、田布施の出身であることや、大村益次郎が石州口から攻め、浜田城を落とした話も学びました。浜田藩の松平武成は、美濃の高須藩の三男で、二男の慶勝は尾張藩主になり、五男の茂栄は一橋家を継ぎ、七男の容保は会津藩主に、八男の定敬は桑名藩主に就き、これが幕末史のキモです。

それは美濃の高須藩が、徳川家の後継者として、天皇家の継承血統に、伏見宮家が果たした役割と、同じシステムが松平家でも、使われていたからで、松江の松平より浜田の松平が、徳川本家に近いのです。永世親王の嫡子なら、何代も隔っていても無条件で、皇位継承権を維持する、永世親王制の伏見家に、高須家は相同性を持っていました。

だから、幕末の混乱した時期に、萩藩の隣に位置したが、浜田藩のように蹂躙されず、初期の明治政府に対し、人材を送り込むことで、津和野藩は特別な位置を保った。また、最後の殿様の亀井茲明は、幕末の堤哲長の息子で、亀井茲監の養子になり、津和野藩主になったが、豊臣秀吉が君臨した頃から、東南アジアと交易して、亀井家は瀬戸内海の水軍に、繋がっていたと知りました。

私の父方の祖先は、平泉の藤原の末流として、東北の修験の家系だが、祖父は新潟の測地衆であり、鉄道で働き若死にし、母親が再婚したために、私の父は道修町で修業した後で、商人になったのです。私は小学四年生の時に、夏休みを浜田で過ごして以来、毎年祖母の家で夏を過ごし、松江の叔母の所に立ち寄り、出雲や大山を彷徨したので、山陰の岩や海岸に親しみ、風土記や神話を味わいました。

それまで江川を遡行して、三段峡を経て三次まで、中国山脈を歩いた私は、出雲や美作の砂鉄を使う、たたら製鉄については、可なりの知識を持ち、山の民の生活に親しみました。そこで、日本で古い地層に属す、福知山の夜久野層を調べ、兵庫の蒜山から鳥取の若桜を経て,三朝温泉から大山まで、一週間ほど巡検したのは、確か大学二年の頃の経験です。

その頃のトピックスに、美作の人形峠において、ウラン鉱脈が発見され、日本が誇るウラン鉱山の開発が、話題になっていたので、この美作の巡検旅行が、未だに印象深く残るのです。その時は知らなかったが、将来のある時点において、それが相沢英之に結び付き、山林王との関係の形で、浮かび上がった件は、稿を改めて書くことにしましょう。(続く)